二つの動画を手がかりに、「言葉にする」とはどういう営みなのかを考えるための資料。
渡部が今している活動を、強引に「職種」の言葉に当てはめると、こうなる。
動画のなかで、玉置浩二さんが何をしたのか。それを言葉にしてみてほしい。「歌った」「泣いた」「曲を贈った」。どれも嘘ではない。けれど、その言葉だけを受け取った人に、あの数秒で起きたことが届くかといえば、届かない。言葉にした途端、あそこにあったものの大半が、こぼれ落ちる。
上に並べた黒いカードも、同じことをしている。私は何をしている人か、と聞かれて「事業主です」と答える。すると相手の中で、私は事業主になる。事業主以外の顔は、もう思い浮かばない。ならばと、企画もやっています、学校でキャリア教育の講師もしています、本も書いています、と並べていく。今度は「結局、何の人なんですか」と返ってくる。一語にすれば一つの顔しか残らず、全部並べれば何者でもなくなる。どちらに転んでも、言葉のほうが私より先に相手へ届いてしまう。
言語化することで、伝えたいことの百分の一くらいしか伝わっていない、と私は思っている。それでも私たちは言葉にする。言葉にしないと、渡せないからだ。ただ、渡した言葉が本物だと思われた瞬間に、相手はそれ以上を見なくなる。言語化の怖さは、伝わらないことにあるのではなく、伝わったことにされてしまうことにある。
だから私は、言語化することが本当に必要なのかどうか、問いを立て続ける人生を送ることになるのだろうと思っている。答えを出したいのではない。言葉にする前の、まだ名前のついていない時間を、言葉と同じくらい大事に扱いたいだけだ。
言語化することが、全てではない。